
リサ・ラーソン(Alhage生まれ)は、1931年にスウェーデン南部のハールンダで生まれました。彼女の父親は製材所を経営しており、熱心な芸術愛好家でした。彼は出張に出かけるたびに、家族のために新しいアート作品を手土産にして帰りました。
| 「私が子どもの頃、家にはたくさんのアート作品があって、私はアーティストになることを夢見て育ったの」 |
1970年代のスケッチブックから、子どもらしい素描
10代のリサ(左)と妹、ティッティ・レンジ。
子ども時代、リサは手仕事に興味津々でした。彼女は服をデザインし、周囲を塗装し、そして彼女の父の製材所から材料を拝借して、木のフィギュリンを彫りました。10代後半の夏のゲストは、思いがけず彼女の将来に影響を与える人でした。
| 「HDKの教授が私の絵を見て、応募するよう勧めてくれたの。スウェーデンのアーティスト、Döderhultarnから影響を受けた木製のフィギュリンを3つ提出して合格したのよ」 |
思春期の間、リサラーソンはファッションデザイナーになりたいという野心を持っていました(代わりにそれは、彼女の妹であるティッティ・レンジの天職となりました)。しかし、リサがヨーテボリ大学芸術学部デザイン工芸校(HDK)で陶芸プログラムを学び始めたとき、彼女はこれこそが自分の進む道だと思ったのです。
| 「粘土が私の素材であると心から感じられるのは、素晴らしい気持ちだった。でも、純粋に素材という観点から見ると、それは他よりも取り組みやすい工芸だから、私はテキスタイルデザイナーに少し嫉妬を覚えることがあるの」 |
授業の後、彼女はろくろで自由に制作するために、喜んでワークショップに滞在しました。 ヨーテボリでの1年後、リサはクリスマスバザーで彼女の生涯の伴侶に出会いました。それがグンナル・ラーソン。彼は市の芸術大学、ヴァランド・アカデミーの生徒で、黒い服を着るのが好きな若者でした。
| 「でも、彼は他の子と踊って、私と一緒には踊らなかったの。最後のダンスの前に、彼はとうとう私を誘って、私をドアまで送ってくれた。私たちは貧乏だったけど、そうして過ごした年月は本当に素晴らしかったわ」 |
イェーテボリでの美術の研究中に花瓶を彫るリサ
リサの学生時代のアートコンテスト用の花瓶
5年間の教育の終わりに、リサは北欧のアート・コンテストに参加しました。彼女の出品作は、彫刻が施されたシナモンブラウンの花瓶でした。審査員の一人であるスティグ・リンドベリは、グスタフスベリ磁器工場のアート・ディレクターでした。彼はリサの花瓶にほれ込み、彼女に工房での1年間のトライアル採用を申し出ました。けれどもリサは、自分自身のスタジオで自由な芸術的生活を送ることを、ずっと昔から夢見ていました。
| 「私は商業的な仕事をすることには懐疑的だったけど、自分のプロジェクトに平行して取り組むことができるからオーケーしたの。グンナルと私は、26年間もグスタフスベリに滞在することになりました」 |
リサ・ラーソンはスウェーデン・デザインの全盛期に、グスタフスベリで自身のプロとしてのキャリアを開始しました。アーティストたちは、家具や織物からプラスチックやステンレス鋼にいたるまで、あらゆるものをデザインする業績好調な製造業に従事していました。良いデザインに対する国民の関心は、広範かつ強かったのです。
彫刻パターンを施した一点もののハト 1953年
グスタフスベリ試用期間中のリサと他の見習生たち、そしてメンターのスティグ・リンドベリ
ストックホルム郊外のヴァルムドエーにあるグスタフスベリ社は、北欧地域を代表する陶磁器メーカーの1つでした。リサとグンナルが入社したとき、ヴィルヘルム・コーゲやベルント・フリードベリ、スティグ・リンドベリのような著名なアーティストがすでに在籍していました。若いカップルは、簡易キッチンとシャワーを備えたシンプルな部屋に入居しました。
リサ・ラーソンと他の若いアーティストたちは、1年を通して素晴らしい創作の自由を与えられていました。新しい才能のためのスタジオは「プレイハウス」と呼ばれており、彼らはそこに在籍していました。スティグ・リンドベリはグループのメンターとしての役割を果たしており、しばしば工房を訪れて彼らの作品について熱心に話し合いました。
| 「スティグはダイナミックな人で、感情を強く揺さぶることができた。彼はいつも私を支えてくれたの。そして私たちはとてもうまくやっていたわ」 |
リサ・ラーソンは一年間のトライアルの後に正式に採用されました。彼女は間もなく最も有名なデザイナーの一人になりました。彼女のフィギュリンは、柔らかくぽっちゃりとした形をした人々や動物を表現していました。表情は温かくユーモラスで、ちょっぴり皮肉を含んでいました。
「スティナと猫」、 「小さな動物園」、 「大きな動物園」の猫たちとリサ 1950年代後半
「小さな動物園」シリーズ作品のほとんど 1956年
1950年代半ばのある日、リサは尾をまっすぐぴんと空中に上げた猫を作りました。その猫は、ストライプ模様が刻まれた濃い茶色の炻器でできていました。この現代的なフィギュリンに続いて、当時の典型的なスタイルの他の2匹の猫が制作されました。それらは後にグスタフスベリでの彼女の最初の成功したシリーズ、「小さな動物園(Small Zoo)」シリーズの一部となったのです。
グスタフスベリ時代に、リサは炻器素材の可能性を発見しました。このタイプの粘土は、それが焼結する(ガラス化する)ように、より高い温度で燃やすことができます。その結果、耐久性と防水性に優れたセラミック材料が生まれました。
シャモット炻器粘土のリサ・ラーソンのフィギュリン「グスタフ」
白炻器のリサ・ラーソンのフィギュリン「オスカー」
リサは、ほとんどいつも炻器と細かく砕かれたシャモット(焼粉)を混ぜ合わせていました。その粘土は彼女の希望によって、グスタフスベリの研究室で開発されました。シャモット炻器は、リサのデザインの特徴である、ざらざらした素朴な外観を作品に与えています。
リサは量産物と一点ものの作品の中で、たくさんの女性たちをデザインしてきました。中でも一番有名なシリーズは、1958年に発表されたABCガールであることは言うまでもないでしょう。曲線美を生かした形をした5体のフィギュリンは、すべてAからEで始まる名前を持っています。花の彩色プリントのバリエーションは、コレクターの間でより珍重されており、垂涎の的です。
| 「彼女たちがそんなに膨らんだ理由は、(ブックエンドとして)本を支えるのに必要だったから。でも彼女たちは、それにはあまりにも軽くなり過ぎたの。私はいまだにその形が好き。私の作品が少しふっくらしてしまうのは、よくあることなのよ」 |
「ABCガール」シリーズ 1958年
プリント柄のドレスを着たABCガール「シャルロッテ」
リサのABCガールには、有名なヴィレンドルフのヴィーナスのような、豊満な古代の大地の女神からのインスピレーションが見受けられます。グラマラスな女の子たちの姿は、1950年代の理想であった、ほっそりしたスタイルとは明らかに対照的でした。何人かの批評家は鼻であしらいましたが、このシリーズは間もなく一般大衆の間で大人気となりました。
リサ・ラーソンは彼女のフィギュリンで最もよく知られていますが、花瓶や鉢といった多くの美術品もデザインしました。1956年から1964年の間、彼女の量産向け作品には大量のアート作品が含まれていました。ヴァリエテ、アドベント、グラナダ、タラゴナ、タリア、およびカロリンといったシリーズには、花瓶やボウルのほか、燭台、灰皿、鏡も含まれていました。装飾はしばしば彫り込まれているか、その時代の典型的な色で彩色されており、幾何学模様が特徴です。それらのモチーフは、しばしば特徴的な様式で人間と動物の世界から描き出されました。
リサのアートウェア 1956年から1964年までの期間
彫刻が施され部分的に艶をかけられた一点ものの花瓶 1960年代
当時のリサの一点ものの作品の中にも、たくさんの花瓶や鉢がありました。それらは伝統的な形のシャモットの炻器で何度も手作りされました。そのユニークさは、落ち着いた色の艶をかけられた部分にしばしば刻まれました。複雑なデザインの大きな花瓶は、現代のコレクターに人気があります。
リサ・ラーソンのフィギュリンは、通常は原型です。しかし、いくつかの場面で、彼女は特定の人々や文学上の人物をモデルにしています。例えば、彼女の作品の「ラーソンの子どもたち」シリーズのヨハンナ(1961年)や、アストリッド・リンドグレーンの 「長くつ下のピッピ」(1967年)がそうです。
| 「ピッピの脚は長いから倒れやすく、炉の中で壊れてしまうの。そのため、工場は彼女では採算が取れなかった。でも、アストリッド・リンドグレーンは彼女をとても気に入ってくれたわ」 |
「ラーソンの子どもたち」シリーズから、眠たい「ヨハンナ」
違う種類のリサの長くつ下のピッピを見ているアストリッド・リンドグレーン。
リサの最も有名なポートレイトは、1972年当時の大臣グンナー・ストレングでした。フィギュリンは、コイン投入口のある貯金箱としてきちんと設計されていましたが、お金が取り出される機会はありませんでした。財務大臣が主張したとおり、「ストレングが受け取ったものは、貯めておきます」。 貯金箱はヒット商品となり、今日の中古市場では一般的な商品です。
1960年代から1970年代にかけて、セラミックスは多くのスウェーデンの家の壁を飾っていました。1959年から1977年の間、リサ・ラーソンは大量生産用に約50枚のウォールプレートをデザインしました。その大部分は、ほっとするような素朴な表現を用い、動物や人々をモチーフにして制作されました。装飾技師たちは、しばしば多種多様な配色を作る大きな自由を与えられていました。その期間中、リサはいくつかの団体のためにも、ウォールプレートをデザインしました。
1959年~1977年のウォールプレート・コレクション
初の量産ウォールプレート「ライダー」1959年
リサ・ラーソンは、飼い猫、野生のライオンの両方を含む多くの猫科の動物たちと強く関わています。長年にわたり、リサは6頭のライオンをデザインしました、そして、およそ30匹の猫はスウェーデンの量産品としてデザインされました。最も丸いフィギュリンはろくろで制作されました。
| 「私はいつも猫を飼っていました。私が育った国では、それはごく当たり前の生活の一部なの。猫の癒し効果は、彼らが膝の上でごろごろしている時、はっきり分かるわ」 |
リサ・ラーソンは、彼女のキャリアを通して慈善事業に関わってきました。最も有名なものは、彼女が1974年から1975年にデザインした「世界の子供たち」シリーズです。8人の子供のフィギュリンは商業的な成功をおさめ、収益の一部はユニセフ(国連の児童基金)に寄付されました。
「世界の子供たち」のフィギュリンを手にするリサと国連親善大使のダニー・ケイ 1974年
「絶滅保護動物」シリーズのカワウソ 1975年~1981年
同様のプロジェクトが、世界自然保護基金(WWF)と協働した「絶滅保護動物」シリーズ(1975年~1981年)および「田舎の動物たち」シリーズ(1990年~1992年)です。 近年、特に慈善団体用に署名された最初の複製を販売し、心肺基金のためにデザインされた作品を販売しています。
1970年代、グスタフスベリは厳しい時期を迎えました。労働条件が悪化したため、1980年にリサ・ラーソンは会社を退職しました。その後の10年間、彼女はフリーランスのデザイナーとして自分の運を試すことになります。
| 「それだけ需要があるのは、素晴らしい気分だった。そして今、私にとってエキサイティングな時間が始まったの。それはグスタフスベリで過ごした時間とは全く違うものだったわ」 |
当時、リサはデュカ、ヘガネス、ロイヤルクローナ、KF、オーレン、サンドバーグ、ジィ社といったスウェーデン企業と協働していました。また、ドイツの会社ゴーベルとローゼンタールの仕事も受注していました。
「田舎の動物たち」シリーズのコレクション 1990年~1992年
「マヤ」のフィギュリン 1980年代のスタジオ制作
1980年代のリサの作品には、あらゆる種類のフィギュリン、燭台、花瓶、ボウル、食器が含まれています。最も有名なものは、オーレンスの食器シリーズ「Jang」(1985年)、およびジィ社のシリーズ「田舎の動物たち」(1990〜1992年)です。後者のシリーズは、誇り高きオオヤマネコから慌てた野ウサギまで、14匹の動物で構成されています。もともとは25の地方の動物で計画されていましたが、ジィ社は財政難に陥り、時期尚早に生産を中止しました。フリーランスに加えて、リサは元の同僚フランコ・ニコローシとシヴ・ソリンと共に会社「リサ・ラーソン・デザイン AB」を経営していました。同社は、リサの家の近くのスタジオで小規模の炻器製造を行っていました。
1970年代から1980年代にかけて、リサ・ラーソンは陶磁器以外の材料を扱っていました。 フリーランスの仕事では、彼女はガラス(ロイヤル・クローナとスクルーフ)、ブロンズ(Galleri Scandia社)と木(サンドバーグ)をデザインしました。ブロンズのアート作品は限定版で作られており、現代のコレクターの人気を集めています。

木像(1980年代)サンドバーグ製

ガラスの象(1970年代)ロイヤル・クローナ製

ブロンズ像「10代」(1970年代)Galleri Scandia製
そのキャリアを通して、リサ・ラーソンは自由な芸術的創造を行う企業のために、複合的なデザインを行ってきました。彼女の一点ものの作品は、60年以上培われた芸術性を備え、主に花瓶とフィギュリンで構成されています。それらの作品は原始美術にインスパイアされ、素朴な印象を与えます。彼女の作品にあるのびのびとした発想は、完璧主義よりも高く評価されています。
| 「一点ものの作品は、私にとっていつも新鮮な空気で一息つける場なの。量産向けの制作条件を考慮に入れなくてすむ作品ね」 |
リサと一点ものの猫 1970年代
一点ものの母の彫刻 1950年代後半
1992年に、リサ・ラーソンとフランコ・ニコローシ、シヴ・ソリンはセラミックスタジオ・グスタフスベリを設立しました。そのコラボレーションは、彼女の芸術性にとって栄光の新時代を意味するものでした。今日でも、彼女はいまだに新しい作品をデザインすることに意欲的です。同時にそのスタジオは、グスタフスベリでの200年以上続く手作りの陶器生産の伝統を継続していきます。
リサとセラミックスタジオのオーナーと従業員たち 2000年代初頭
ヴァイキングのフィギュリン 1990年代
セラミックスタジオでは、リサ・ラーソンの作品はまだ手作業で製造されています。彼女はまず自分のスケッチに基づいて試作品を作成します。オーナーのアンダース・エングストランドは、およそ10人の従業員と共に、多くの行程を経てフィギュリンを完成させます。
リサ・ラーソンと日本のアートとの出会いは、1950年代という早い時期にヘルシングボルイ国際博覧会、そしてエスノグラフィックとルスカ工芸美術博物館で、日本の陶芸コレクションを訪れたときでした。1970年代から1980年代の間に、リサは日本を数回訪れており、それは東京で開催された自身の一点物の炻器の展覧会を含みます。
2000年代初頭に、大阪のデザインショップのオーナーは、大きなリサ・ラーソンのライオンをプレゼントされました。喜んだ彼女はセラミックスタジオに連絡を取り、彼らは一緒に仕事を始めました。ほどなくリサ・ラーソンのフィギュリンの最初の箱が、日本に到着しました。そして、それらは大ヒット商品となったのです。
今日、セラミックスタジオからの出荷の半分以上が日本向けです。2014年から2015年にかけて、8つの日本の都市を巡るリサ・ラーソンの回顧展が行われました。それは20万人以上の来場者を集めました。陶磁器から衣料品、家庭用品にいたるまで、あらゆるものを製造している日本企業といくつかのライセンス契約が進行中です。
| 「年を取ってもそんなふうに認められるって、とても楽しいことよ」 |
2014年の展覧会用の日本のポスター
日本で大活躍しているリサ・ラーソンの猫マイキー
リサとグンナルは晩年をナッカで過ごしましたが、そこはセラミックスタジオ・グスタフスベリからさほど遠くない場所でした。彼女たちのアパートは、写真、彫刻、スケッチ、モデル、ブラシ、未完成のプロジェクト、そして新しいアイデアでいっぱいでした。彼女は毎日の朝を静かな瞑想で始め、残りの時間は粘土を使って作業していました。2024年、92歳で亡くなりましたが、それは彼女の一点ものを集めた作品の展示会のわずか数週間後のことでした。リサは最後までアーティストとしての人生を全うしたのです。
| 「やりたいことがたくさんあり過ぎるの。老け込む時間なんてないのよ!」 |
一点もののヨガのフィギュリン
団欒を共に過ごすリサとグンナル