スティグ・リンドベリ(Stig Lindberg)について
先駆者的で牧歌的、ルネサンス的な教養人で非凡なデザイナー。スティグ・リンドベリ(Stig Lindberg)を表現する言葉は数えきれません。 とりわけ、彼は色彩とフォルムをスウェーデンのミッドセンチュリーに与えたデザイナーの一人でした。 スリムで繊細なストーンウェアからテレビ、洗面台、食器、家のインテリア、テキスタイル、児童書籍、エナメル、ガラスアートにいたるまで、スティグの影響はデザイン界全体に急速に浸透しました。スティグの生涯にわたる芸術作品の幅広さに、夢中になるのも無理はありません。
スウェーデン北部からグスターヴスベルクへ
スティグ・リンドベリは、1916年にスウェーデン北部の都市ウメオで生まれました。 彼の自身の言うところによると、彼は「礼儀正しく、しつけの行き届いた」子供でした。人生におけるスティグの初恋の相手はピアノ音楽であり、ピアノ演奏家として生涯を送るつもりでした。
14歳のとき、スティグは木を削っている最中に親指を切ってしまいました。 傷が癒える間に、彼は生涯にわたるスケッチへの興味を発見し、 新しい恋をピアノの鍵盤から紙とペンに置き換えました。
1935年、スティグはスウエーデン国立ストックホルム美術工芸デザイン大学で絵画を学び始めました。 2年後、彼はストックホルム諸島のグスタフスベリ製陶所に、アポイントなしでサマージョブを探しに行きました。そのやせっぽちで風変わりな見た目の若者は、自信にあふれていました。「 もし御社が私を採用すれば、工場の仕事が必ずありますよ」。
スティグはサマージョブをオファーされ、45年間グスタフスベリ製陶所で仕事を続けました。 その製陶所は、当時スウェーデンの多くの陶磁器メーカーの中でも最も有名でした。 スティグが製陶所に着任したとき、ウィルヘルム・コーゲやベルント・フリーベリのような有名なアーティストのチームがすでに稼働していました。
グスタフスベリ初期 - 熟練工から芸術的指導者へ
グスタフスベリで働く若い美術学生は、スティグ・リンドベリただ一人ではありませんでした。 芸術家のリーダーであるウィルヘルム・コーゲは、彼の裁量でアシスタントのグループ全体を抱えていました。これら野心ある若い美術学生たちは雇用契約が浅く、しばしば基本的な仕事しかさせてもらえませんでした。 アシスタントと使い走りの役割、とはいえそれらはスティグにとって一時的なものだったことでしょう。
スティグはみごとな描画技術と彼の豊富なアイデアを共有することで、すぐにグスタフスベリで頭角をあらわしました。 コーゲはこの若い熟練工に感銘を受け、工場でより重要な役割を果たすよう門戸を開くとともに、スティグにより大きな芸術的自由を与えました。 スティグは最初から、前例のないペースでアイデアを量産しました。それは彼の履歴にとって特徴的なものになりました。 1940年代の最も注目すべき功績は、ファイアンスとパリアンシリーズの活性化でした。
スティグとウィルヘルム・コーゲはともに、1930年代後半から1940年代初頭にかけて、多様で広範なファイアンス陶器の生産を発展させました。 花瓶、皿、ボウルは、赤みを帯びた陶器からなり、乳白色の釉薬で覆われていて、大胆な色彩と手の込んだ装飾が施されています。 1940年代のフラワーモチーフは、1950年代から1960年代において当時の典型的な幾何学的装飾へと徐々に移行していきました。 作品にはしばしばスティグ・リンドベリのシンボルである、青いてのひらのマークが入れられました。 ファイアンスシリーズは大成功をおさめ、いまなおスウェーデン中期デザインの最も有名なシンボルのひとつです。
1940年代に、スティグは画期的でシュールレアリスティックなパリアンシリーズを制作しました。 このシリーズは、パリアン磁器製の7つの彫刻作品で構成されています。 一般的にそれらの作品は、グスタフスベリの有名な19世紀のパリアン彫刻の近代的解釈と見なされています。このシリーズは1960年代に限定版で再製作されました。
ウィルヘルム・コーゲは1940年代後半に、芸術的指導者の役割をゆっくりとリンドベリへ委譲しました。 1949年、33歳のスティグはコーゲの後継者に選ばれました。 芸術的指導者のための型破りな選択は、グスタフスベリ従業員の中の伝統主義者に反感を買うこととなりました。
名声を得る
1950年代、スティグ・リンドベリはグスタフスベリ製陶所の代表者という彼の評判を築きました。彼はただ一人の広報チームであり、頻繁にトラブルを抱えている工場に対する国民の関心を高めました。スティグはメディアの天才でした。彼がその時代に得た名声は、今日のセレブなデザイナー、ブロガー、プロジェクトマネージャー、パーティー・オーガナイザーなどの評判に匹敵します。 スティグは工業デザインの芸術的価値と、より伝統的な芸術作品とを区別しませんでした。彼が述べたように「私にとっての画鋲は、野の花と同様に詩的なのです」。
子供たちのためのシュルレアリスム
1940年代の終わりから1950年代の終わりにかけて、スティグ・リンドベリは、スウェーデンの児童書のために陽気で不条理で超現実的なイラストを制作しました。スティグの絵は、人生に対するウィットにあふれ、おどけた態度を表現していました。彼の天然ボケな見た目と遊び心のあるいたずらで、いたずらっ子クラーケル・スペクターケルは彼の最も有名なキャラクターとなっています。スティグの子供向け絵本は、彼の膨大な作品のカタログの中では、ちょっとした中断ではあるかもしれませんが、むしろそれは素晴らしい中断と言えるのではないでしょうか!
モダン、モダン、モダン!
スティグ・リンドベリの1950年代以降の作品は、合理化された完璧さを特徴としています。プンゴ(1953年)やレプタイル(1953年)などのシリーズは、北欧で大好評を博しました。 しかし、デザインの専門家たちや一般の人たちの両方から、最も熱烈な歓迎を受けた作品は1955年のヘルシングボルイ国際博覧会で発表されたドミノシリーズです。円錐形、正方形、円筒形、白と黒を対比させたボールのような円形 。 ああ、モダンとはまさにこのことです!
ベルサよ永遠に
長年にわたって、非常に人気のあるベルサ柄のテーブルウェアは、スウェーデンのデザインやグスタフスベリ 陶磁器、そしてスティグ・リンドベリの象徴となっています。 それは1960年に始まり、1974年まで生産されていました。この柄はクリスター・カールマークによってデザインされました。その後、彼はスウェーデン国立ストックホルム美術工芸デザイン大学の教授になりましたが、当時はスティグ・リンドベリのアシスタントでした。 スティグは柄のデザインを委託、承認、着色し、彼の新しい高機能食器デザインにのせて生産を開始しました。 ベルサは、華美と簡素の間、必要と不必要の間における「最高のカップリング」であったと言えるでしょう。
40年間のユニークな作品たち
スティグ・リンドベリのユニークな作品たちは、グスタフスベリ社における40年以上にわたる芸術的手腕をカバーしています。 花瓶はしばしば、切れ込みの入った伝統的でバランスのとれた形をしています。 これらの切れ込みは、流れ落ちる釉薬を受け止めるのに役立ち、申し分のない複雑な表面の風合いを作り上げます。 個々の彫刻は、その表現においてよりシュールで、風変わりなものです。 通常、それらはコレクター達によって引っ張りだこの人気です。
困難な時代
スティグ・リンドベリは1970年代にいくつかの新しい食器類を作りましたが、彼の作品は以前のデザインと同じほどには歓迎されませんでした。シュールリアリスティックで、遊び心にあふれ、素晴らしい 彼のデザインにおける個性は、衰えてしまっていたのです。もしかしたら彼は、夢や欲望を見つけて挑戦する技量を失っていたのかもしれません。 一日では時間がまったく足りなかったように思われる、40年間のほぼ中断のない仕事の後では、それはさほど驚くべきことではありません。 「ここはもはやクリエイティブな場所ではない」と、1980年代初めに彼は同僚に語りました。スティグの晩年はグスタフスベリを休むことで表されていました。 彼はたまにだけ働き、一連の価値のある柄を制作し、いくつかのセラミックシリーズを立ち上げました。 そうでなければイタリアで静かな余生を送っていたであろうスティグは、65歳で心臓発作により亡くなりました。 グスタフスベリでは、反旗を掲げて弔意を表したと言われています。
