
| 「私は常にガラスの形や色彩の中に、原始的な単純さを探求しているんだ」 |
エリック・ホグランは、1932年に南スウェーデン沿岸の都市、カールスクルーナで生まれました。彼は母を早くに亡くし、銀行員であった彼の父はすぐに再婚しました。彼の兄のトーレもアーティストになりました。
ホグラン家は控えめにいって中流家庭でした。エリックは当時、一種の寂しさを感じていました。学校で彼は絵画や工芸、スポーツに興味を持ちました。12歳になったとき、彼は糖尿病に罹り、その後数年間、彼の健康に影響を及ぼしました。
| 「私は、学校を抜け出して一人で絵を描きに行ったことがよくあったんだ。当時、私は理論的な科目で散々だった。私はむしろスケッチブック片手に、まったく違う世界を放浪してみたかった。できれば、漁師が本による学習などあまり意に介さない群島でね。そこで大事なこと は、手先の器用さだった」 |

スウェーデン国立芸術工芸デザイン大学でのエリック 1950年
ボダ社のガラスデザイン 1950年代もしくは1960年代
エリックが16歳のとき、彼はストックホルムの国立芸術工芸デザイン大学で美術を学び始めました。当初、彼は絵画を学んでいましたが、すぐに専攻を彫刻に変更しました。年上のクラスメートが休暇中に海外旅行をしているとき、彼はスウェーデンでサイクリングをすることで満足していました。
| 「私にはお金がほとんどなかったけれど、豚にやるバターミルクのいくらかを私に分けてもかまわないと思ってくれた、何軒かの親切な農家にいつも会えたよ。もし私が彼らの馬の絵を描けていたら、夕食と寝床にありつくことができたんだけどね」 |
21歳のとき、エリック・ホグランは美術学校のクラスメートと結婚し、すぐに娘を授かりました。1953年から1975年の間に、彼は都合6人の子どもを儲け、彼らの多くはクリエイティブな分野で働き始めました。家庭生活はしばしば、彼のモチーフ選択に影響を与えました。彼の彫刻の多くは、家族関係、子どもたち、そして結束の固いグループで生じる様々な問題を扱っています。
ボダ社製女性の刻印付きのペンダント 1950年代もしくは1960年代
エリックとボダ社の伝説的ディレクター、エリック・ローゼン 1950年代
1953年にボダ社のディレクターだったエリック・ローゼンは、若いガラスデザイナーの求人を美術学校に依頼しました。エリック・ホグランは、ガラスについてはほとんど経験がなかったにもかかわらず、そのチャンスを掴みました。彼は、質素なバックパックを持って電車で到着しました。彼が20年間そこに在籍し、スウェーデンのガラス産業に革命を起こすことなど誰も知らなかったのです。
| 「取締役会の懸念を喚起することがないように、私の給料がいくらであるかについては触れないという条件で、私は1回の契約で6か月間、デザイナーとして働くことに同意したんだ。ガラス工房でアーティストを雇うのは一般的ではなかった。私は月に250クローナの給料を受け取ったよ。ストックホルムの私のアパートの賃料が250クローナだったから、象徴的な額だね。最初の数年間は、思い出すと大変だったけど楽しかったよ」 |
作品で埋ったボダ社の工房にいるエリック 1950年代半ば
Peopleシリーズ ボダ社製 1957年
エリック・ホグランは、会社とスウェーデンのガラス業界全体が拡大成長しているタイミングで、ボダ社で働き始めました。ガラスの世界は彼にとってまったく未知のものだったため、彼はできるだけ早く習得することを望みました。ガラス炉で誰かの邪魔をしないように、彼は夜にガラスを吹き、粉砕することを学びました。エリックは、成功への鍵として懸命な努力をよく強調しています。
| 「私は自分の信じたとおりにやっただけだ。私は頑固で幸運だった。また、私のアイデアは、常に経験豊富な職人たちとの実りあるコラボレーションによって補完されていたんだ」 |
1954年に、エリックは初めて奨学金によるイタリアとギリシャへの海外留学に出発しました。彼は古典的なラインや造形よりも、官能的なエトルリアやギリシア・クレタ島の文化により興味をひかれました。旅行の間、彼は真の貧困とはいかなるものかを見ました。そして、地中海での戦争で荒廃した土地における彼の経験は、彼に強い影響を与えたのです。
ボトルのデザイン ボダ社製 1960年代後半
エリックとボダ社のガラスマスターであるエリック・エッカーストロム 1960年代
ボダ社での1年を経て、スウェーデン国立博物館は、スウェーデンのガラスに捧げる大規模な展覧会用に、いくつかの作品を購入するのに十分な興味深いエリック・ホグランの作品を見出しました。これら初期の作品における官能的な単純さは、即座に関心を集めました。
それから数年の間に、吹きガラスの伝統とエリックの創造的なアイデアの間に、頻繁と言える対立が生じました。時に、伝統主義者は抗議の声を上げました。たとえば、彼が気泡を作るために溶融ガラスの坩堝の中にジャガイモを投げ入れたとき、ボダ社の多くの人々はそれはやり過ぎだと考えました。
| 「主要なマイスターの一人だったルーベン・イェルムは、ガラス吹きのパイプを床に投げて家に帰ってしまった。彼は子どもの頃から、ガラスの中にはほんのわずかの気泡も残さないようにとずっと言われてきた。それで私は、シュナップスのボトルを持っていって、じっくりと話をするためにルーベンの家に行ったんだ。そしてそのうちに、私たちは一生の友になったんだよ」 |
エリックと娘のアンナ 1960年代初期
ブックエンド ボダ社製 1960年代
エリック・ホグランは彼独自のスタイルを1950年代に確立しました。形状はシンプルで原始的で、しばしば原始的な文化と民俗的なガラスアートに触発されたものでした。作品は重く素朴で、鋭い縁やなめらかで平らな表面はそこにはありません。ガラスはよく人間や彫刻の形をしていました。
エリックは、光に対して広く強化された着色ガラスを使用していました。ガラス塊の中に気泡が発生し、時にそれは製造によって引き起こされたものでした。彼はしばしば顔、雄牛、その他のシンボルを描いた刻印をガラスに押していました。
彼の芸術的表現は、意識的な非完璧主義のひとつです。したがって、エリックは20世紀前半からのスウェーデン・ガラスアートの成功から一線を画していました。
ガラスを入れたコンクリートブロック ボダ社製 1960年代
レンガに取り組むエリック 1960年代
当初、スウェーデンの市場はエリック・ホグランのガラスに抵抗を示しました。店舗側はそうしたものを今まで見たこともありませんでした。そしてセールスマネジャーは、ボダ社に販売は無理だと訴えました。
しかし、ディレクターは、エリックに彼のデザイン・ビジョンの下、もう少し長く制作を続けることを次のように言って許可しました。「私は君のしていることが何かは分からないが、君が成功するまで続ける方がいいだろう」主要な店舗が彼の作品の展示を断ったとき、エリックは自身の展覧会をストックホルムの小さなギャラリーでに手配しました。
1957年に、ホグランは、おそらく世界で最も権威あるデザイン賞であるルニング賞を受賞しました。すぐにエリックのガラスデザインの売り上げは、彼のデザインセンスを急上昇させました。そのことが、スウェーデンの家庭の日常生活を著しく変化させたのです。
ボダ社での10年後、エリック・ホグランは海外の顧客を掴みました。彼はアメリカでは「ワンダーボーイ」と呼ばれており、彼が触ったものすべてが黄金に変わるかのようでした。
| 「私が成し遂げたすべての成功を信じるのは難しかったよ。たぶんそれはただの幸運な出来事だったんじゃないかな。それをうけて、私はさらに一生懸命に働いた」 |
展覧会用の写真撮影をするエリック 1960年代
鉄とガラスのシャンデリア ボダ社製 1960年代
1950年代、エリックはガラスと鋳造鉄を組み合わせてデザインし始めました。そして1960年代、彼は他の素材を使って作品のデザインを始めました。その課程で、彼は熟練した地元の鍛治工や大工、石工を雇用しました。エリックの芸術的表現は、新しい素材を使って作業する際にも見ることができます。それはシンプルで丸みを帯びた形状と、丈夫で飾らない感じです。
揺り木馬 ボダ社製 1960年代
ニューヨークのエリック 1965年
エリック・ホグランは入社20年後の1973年にボダ社を退職し、自身の鍛冶場を始めました。
そして彼は、スウェーデン芸術産業界での巨大な活力を最も象徴するデザイナーとなりました。その決定は急だったわけではありません。ボダ社での最後の年、エリックは工場の経済的懸念によって、彼の創作プロセスがますます制限されていると感じていました。
| 「経済的な観点から、デザイナーはアーティストよりも建設者になる。彼が芸術的高みに触れることができることもあるという事実は、この全体像に変化を与えない」 |
鉄の彫刻 1970年代
壁面のガラスを扱うエリック 1960年代初め
1950年代初頭から以降にかけて、エリックはおよそ150の主要な公共の芸術作品を制作しました。それらの多くは、教会や学校、そして他の公共建築物にある多きな壁面のガラス窓でした。そのガラス窓を通じた日光の輝きは、その多くが素晴らしい体験を与えてくれます。
彼の生まれ故郷カールスクルーナで、「Fiskargumman(漁師の妻)」は有名な鉄の彫刻です。エリックは、誰よりも女性らしい形をその女性像に与えることで、町を驚かせました。設置された1992年以来、その彫刻は活発な議論の的であり続けています。
写真撮影中のエリック 1970年代後半
雄牛の彫刻 ストレムベリ製 1992年
エリック・ホグランは1980年代にガラスのデザインへと戻ってきました。このとき、彼はブーケベリ、トランスヘー、オーフス、ブリグスタッドといったスウェーデンの小さなガラス工房に向けて制作していました。この時期からもっともよく知られているのは、ストレムベリ・ガラス工房製のアートガラスです。強固で強烈な色合いの動物の頭部は、今日のコレクターに非常に人気があります。
エリックはまたこの時期に、国際的な活動の幅を広げました。1981年、彼はアメリカのガラス工芸教育の国際的中心地であるピルチャックで教えました。1990年代初頭、彼はチェコ共和国ノヴィー・ボルのガラス工房用に着色ガラスをデザインしました。
グラス ストレムベリ製 1992年
ストレムベリのアートガラスを背景にしたエリック 1980年代後期
エリック・ホグランの健康は、1980年代から1990年代にかけて悪化しました。しかし、彼は1998年に亡くなるまで、一人のアーティストとして制作を続けました。最後の年、彼は専らシュールで夢のような情景を描いていました。彼の妻はこのように話を結びました。
| 「弱くなったエリックは、闘病中に色彩と芸術的表現がより力強くなるのかもしれません。病は色の爆発を必要とするようですね」 |
今日、エリック・ホグランの芸術性は確固たるものであり、多くのスウェーデンの家庭には、彼の作品のひとつかそれ以上が飾られています。カールスクルーナにあるブレーキンゲ美術館の「エリック・ホグラン・コレクション」は、世界中のガラス愛好家が訪れる価値があります。